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MASAMI COLLECTION
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1/12 レーシング VOL.1
1997年 以前
1997年 オンロード全日本選手権 1/12
1997年 1/12 全日本選手権 優勝車 2023/08/09RC−12LC
今年の全日本選手権は新潟での開催。 インドアのアスファルトと路面の
サーキット。
レースレポート等は。 廣坂物語 Vol.77
http://www.hirosaka.jp/story77.html
マシンは、アソシエイテッド12LCで一部ヨコモオリジナルパーツ、
またシャーシも少し加工
シャーシは柔軟性を持たせる為にバッテリースロット部を加工。
これでグリップが向上した。
フロントサスペンションを有効に効かせる為、シャーシのたわみ防止に
カーボン板を入れる。
シャーシを一部切り取り、バッテリーはストラップで軽く固定する。
強く締めるとシャーシのロールが無くなる。
モーターは、REEDY
ホイールはヨコモ製
フロントアクスルはインライン
リアハウはマゲネシウム スパーギアはデュモアSPL(薄型)
1996年 オンロード 世界選手権 優勝車
1996年世界選手権 アソシ RC−12LC 2023/02/11
レースレポート等
http://www.hirosaka.jp/story70.html
1996年アメリカでのオンロード世界選手権は、1/12と1/10の
2クラスで開催された。
我々は、やはりヨコモのYRXがメインの為、1/12はアソシの12L3を
使用。
使用マシンは、殆どノーマル
近年は1/12のレースはカーペットが多いのだが、今回はアスファルト路面
での開催となった。
通常アソシはメインシャーシは硬いカーボンを使用しますが、私は硬いものが
嫌いな為に、少し柔らかい素材を使って製作する事が多いのですが、今回は
YRXのプロトを製作した為に、時間が無く、ノーマルのメインシャーシを少し
加工して、剛性を落として使用した。
シャーシの一部を切り抜く事で、グリップの低い路面には効果があります。
フロント周りは全くのノーマル
リアハブはマグネシウム製、そして3点止めの為、ヨコモホイールを使用。
モーターマウントも軽量では無くノーマル(軽量が無かった)
モーターは勿論、REEDY。
今までの1/12の世界選手権では一番手を掛けていなかったが、
結果は優勝。 しかし力を入れていた1/10は優勝できなかった。
まあ、レースとはこんなもの。
1995年 1/12全日本選手権
1/12全日本選手権 RC-12LC 2023/11/11インドアのベルサーキットで開催された、1/12全日本選手権。
日本での世界選手権の後でもあり、準備不足でボディの塗装が間に合わず
簡単塗装で臨む。
バッテリーは、珍しくパナソニックを使用。
ESCは軽量及びスペース確保の為チューブでパック
シャーシ裏側は、抵抗を減らすためにテフロンテープを貼る。
ウインウはカーボン製。
フロントサスの捩れを防ぐ為に、プレートを入れる。
ハブは左右共ヨコモ製(3点止め)
モーターマウントの左側は、アルミSPL.
シャーシ底はテフロンテープ。 カーペットには大変良い効果があったが、
あまり使用するドライバーはいなかった。
ホイールはヨコモ製、軽量
ヨコモホイールは3点止め。
1988年1/12世界選手権 RC−12L
1988年世界選手権 RC−12L 2022/09/05
1986年まで、打倒ワークスを掲げ挑戦したが、全日本選手権優勝をする
事が出来、翌年にはオフロードにて世界選手権優勝を果たす事が出来た。
そして1988年に正美と共にヨコモに入社し、始めての世界選手権、1/12
にアソシワークスとして認められ、参加する事となった。
初めてのワークスとしての参加、ましてや世界のNO−1チームでの参加となり
何も分からないままで、失敗ばかりのレースであったが、皆の後押しで何とか
優勝する事が出来た。
この世界選手権ではレースまでに多くのテスト、練習の機会があり、また予選
も9回も行われ、予選3日のレースレース終了後にも練習が出来、正美にとって
は、大変多くの良い練習となった。
1998年1/12世界選手権 レポート @
http://www.hirosaka.jp/story21.html
1998年1/12世界選手権 レポート A
http://www.hirosaka.jp/story22.html
1997年オフロードに続き連覇する事が出来た。 オン、オフの優勝は
史上初となった。
ライバルでチームメイトのトニー・ナイジンガーと対戦。
今回は大会中、どんどんとマシンが進化していった。
ボディも決勝前日に、軽量ボディが入手。アソシの社長の指示で
参加選手の一人が、自分のレースを放棄して徹夜で塗装をしてくれた。
塗装して頂いた、選手のサインです。 大変喜んで頂きました。
マシンもどんどん変化していきました。
モーターマウントも一体型の削りだしで、ドイツの選手がサポートして
くれました。
ハブはマグネシム製。
モータマウントブレースにはテフロンテープを貼り付け。
今回は、光美も手伝いのつもりで参加させたが、最終予選前までは、
全体の9位にいて、皆をびっくりさせた。 もしAメインに残ったらどうしよう?
と心配していた。 幸か不幸かBメインで安心した。
しかし、正美の予備カーのほぼ市販品での健闘、皆の評価は大変高かった。
今回のレースで改めてワークスの凄さを知ることが出来た。我々は大変幸運
で良い結果を得る事が出来たが、チーム内での地位を保つ事は大変な事
だという事を教えられた。 戦いはレースだけでなくチームの中でも戦わなければ
ならない。
1987年 オンロード全日本選手権
1987年 オンロード全日本選手権 RC−12 2022/06/05 記載1987年川崎競馬場にて行われた全日本選手権で優勝したマシンです。
レースレポート等は、 廣坂物語 Vol.20 にて
1987年 1/12全日本選手権 ← クリック
8月9日イギリスでの世界選手権が終わり、すぐに今度は1/12の全日本
選手権が川崎競馬場にて開催された。 今年はオフロード世界選手権の為、
1/12の準備等は殆どしていなく、まさにぶっつけ本場の参加となった。
マシンはアソシエイテッドRC−12L、正式サポートは浮けていない為に、
殆ど、ノーマル仕様。
ESCは、世界選手権で使用した、CX−1
モーターは世界選手権優勝のHPI UNOモーター関口チューン。
抜群のスピードを発揮。
サーボも世界選手権仕様のFETサーボ、あえて小型サーボは使用しなかった。
決勝は雨天の為、タイヤのコンタクトを何重にも塗って走行、殆どスリップは
無く、晴天とあまり変らない走行を見せた。
フロント部はしなりを押さえる為に、カーボンのプレートを追加。これで敏感になる。
シャーシはカーボンでは無く、DDグラファイト。カーボンより少し柔軟で走行しやすい。
バッテリーは、ピークパフォーマンスよりサポートを受け、過去の全日本選手権の
様に、ストレートで置いて行かれる事は無く、素晴らしいスピードでレースを
することが出来た。
ALF アルフの歴史
歴代アルフ 2022/08/28 記載
1982年1/12レーシング全日本選手権への参加が決まり、従来のFRPカー
から、ニューマシンを企画。 たぶん誰も使用した事が無いと思われる、ポリカを
使用したマシンを開発。
超軽量を目指し、全備重量650gを実現したが、走行性能は満足出来るもの
では無く却下。(まだアルフの命名は無し)
そしてポリカ1号車を発展させ全日本選手権カーを完成させ、全日本選手権に
挑戦。
1982年 全日本選手権 初参加 レポート
http://www.hirosaka.jp/story7.html
全日本選手権では、レースは8分間レースと言う事だが当時私たちは周回
レースのみで長くても2分間位のレースの経験しかなかった。
何とか8分間を持たせようとすると、極端にスピードを落とさなくてならず、また
スピードを落としても8分間の走行は大変難しいものだった。
そこで苦肉の策で、途中で充電するのは? と考え、ピットして充する奇策を
考えた。 6分過ぎで12Vで10秒直接充電する事で約2分間走行を延ばす
事が可能となり、トータルでは速くなる事が分かった。
レースで予定通りピットインして上手くいったが、ピットアウト時に他の助手が
ピットレーン入り、その人に激突し、大きなダメージとなった。
全日本選手権では、改めてワークスの大きな力を見せ付けられ、カルチャー
ショックを受けたが、私は2輪のレースでも準ワークスに所属していた為に、ワークス
でも必ず攻略出来る術はあると信じ、闘志を燃やした。
アルフの誕生
そして次に考えたのは、ワークスに対抗する為には、何か違ったシステムを
採用するしか無い、これはHONDAの社長、宗一郎氏の教えで、他のメーカー
が殆ど外国車のコピーをしている事に対してHONDAは、追従するのでは無く
遠回りしてでも前へ出ろと、いつも私達に教えてくれました。
そこで、1/12では、まだどこも採用した事の無いサスシステム4輪独立懸架を
やってみようと考えた。当時実車のF−1も大変人気があり、多くの書籍でシステム
等の紹介をされていた。
そして4独カーの製作に取り掛かった。 レース活動をする為には多くの費用が
必要となる、その為にはマシンを販売して資金を稼ぐ必要があった。
また、パーツの製作も必要な為、すべてを自分だけでは出来ない為に、ABC
ホビーに4独カーの発売を持ちかけた。
まずは、一般の注目を浴びる必要がある為に、ちょっと奇抜なデモカーを製作し
ホビーショーに出展した。
ちょっと遊び心を込めて製作した、4独カーは大変好評で多くの賞賛を得ることが
出来た。 そてABCも4独カーに興味を持って貰う事が出来た。
そこで本格的にレースで使用出来るマシンの開発に取り掛かり、1号が完成しました。
また、これは資金獲得の為販売しなければならない為に、ネーミングが必要となった。
そこで、家族で考えて決まったのが”アルフ”だった。アルフは正美の守り神であり又
廣坂家にとっても大切な神である。
アルフー1
私達が全日本選手権に挑戦用として開発したマシンです。
1982年、初めて1/12全日本選手権に参加。 ワークスのレベルの
高さを思い知らされ、私は打倒ワークスを目標にオリジナルマシンで対抗
するべく、新しくマシン開発をする事とした。 殆どの参加車は3Pシステム
の為、私はあえて4輪独立サスペンションカーを選択した。
当時実車では殆ど4独システムで、機構は複雑だがコーナーリングは速いと
聞いていた。 また我々プライベートではパワーソースでは全く歯が立たない。
ワークスに対抗するにはコーナーを速く走るしかないと考えた。
そこで誕生したのが、アルフだった。ただ機構が複雑な為、パーツも多く必要で
また私達には成型等は出来ない。そこで立体的なパーツを製作するにはポリカ
は強くて良いと聞いた為に、ポリカーボネートを手切りで切り、組み立てをする
方法で製作をした。
一番最初の ALF−1 アルミパーツ以外は殆どポリカーボネートで製作
ステリングブロックもポリカの削りだし。シャフトはFRP。
駆動部、やはり少し複雑になる。
フロント部のパーツ
駆動系
独自のスイッチ盤
ニクロム抵抗のスイッチ盤が多い中、抵抗を使用したスイッチ盤
純銀接点を使用し、殆ど接触不良は無い。
抵抗値を変えることで、変速のタイミングを変える事が出来る。
プリント基盤に純銀板を貼り付け、ノコで切る。前進7段後進5段。
最高は10段まで製作した。 当時販売していた。
スライド接点はビスに純銀接点をロー付け。
全日本選手権仕様には、抵抗に代わりプラチナ線を使用。
ALFには色々なバージョンが存在する。
そして1983年アルフは、販売を始めまたバージョンアップ繰り返し、アルフー7
で再度全日本選手権に挑戦する事となった。 アルフー7はレース専用の為
極限まで軽量化して、パワー不足を補う様に考えた。
1983年1/10全日本選手権 レースレポート
http://www.hirosaka.jp/story8.html
1983年 全日本選手権3位に入賞する事が出来たが、やはり4独では
構造が複雑で、駆動ロスも大きく、重量も重くなる為に、ここで4独を諦め
ALF−8からは3Pとして開発を進めた。
ALF−9は、フロント独立サスで、リアーは、リンクサスとした。 ただ走行性能
は大変良かったが、販売するには、手間がかかり過ぎて収益にならなかった。
そこで、最大限の妥協をして、カーボン仕様のマシンを製作する事にした。
それが、ALF−10となった。
ALF−10
ALF−10
ALF−7にて全日本選手権3位に入賞する事が出来、4独の特異性も
十分にアピール出来、今度は本格的に勝に向う事が必要と考え、”勝てる
マシン”を作る事と考え、駆動系の軽さそして全体も軽くする為にカーボンを
多用し全くの新設計で挑む事とした。
そして、迎えた1985年 全日本選手権 我々の地元とも言える
大阪万博会場での開催となった。
1985年 全日本選手権 レポート
http://www.hirosaka.jp/story9.html
ポリカ仕様から一新してカーボン仕様となった、アルフー10
フロントサスは、ダブルウイッシュボーンタイプ。 ダンパー装備。
スティールのスタビ。
Fサスアームピンは、6mm丸棒から3mmまでヤスリで削り出し。
Rサスはアルフ−8、9でテストした、4Pとも言える、独自のサスシステム。
フロントダンパーは、フリクションタイプ
リアダンパーは、オイルダンパー
今回の塗装は私のデザイン、及び塗装です。
MASAMI をデザインしました。
仲間達の寄せ書きがボディ裏に...
フタバプロポのサポートを受けていました。 当時車用のプロポが無かった為
ヘリ用のプロポを使用していた。
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最後のアルフ、アルフ−11
アルフにて全日本選手権挑戦5年めにして、今度は世界選手権への
参加のチャンスが巡ってきた。JMRCAがツアーにて世界選手権の参加の
募集をしていた為に、我々も無理を承知で参加する事とした。
海外レースは勿論始めての事で、大変費用も掛かるが仲間達が応援して
くれて参加する事が出来た。
世界選手権 レポート
http://www.hirosaka.jp/story10.html
勿論我々は世界選手権には大きな期待はしていなかったが、やはり大きな
カルチャーショックを受けると共に、何となく”行ける!”と言う感覚も感じ取る
事も出来た。
このレースで正美は、リーディ氏の目に留まったそうだ。後日に聞いた話だが
正美は当然全くの無名の少年だが、スピードは桁違いに遅いが、コーナーを
ギリギリまで詰めて、今にも当たりそうな所まで攻める正美の走法が大変
印象に残ったようです。
そして、私が一番印象に残った事は、レース終了後の表彰式が終わった
後に、正美が一人ぽつんと表彰台に立ち、この上に立ちたかった...と
一言。 この時私は、よし必ずこの上に立たせてやる! と、心に誓った。
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悲願の全日本選手権 優勝
世界選手権より帰国後直ぐに全日本選手権に参加
1986年全日本選手権 レポート
http://www.hirosaka.jp/story11.html
苦節5年ようやく手にした全日本選手権チャンピオン。 しかしこの時には
もう精神的にも金銭的にも、限界で今後の事は全く考える余地は無かった。
アルフも目的を達する事が出来た為に、ここで終了する事とした。
歴代アルフ 終わり
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